野母崎樺島町 光明山摂取院 無量寺


法然上人御法語

元祖大師御法語(がんそだいしごほうご) 後編(こうへん)
第三十一(だいさんじゅういち) 還来度生(げんらいどしょう)
左様(さよう)に、そら(ごと)を、たくみて、(もう)(そうろ)うらん(ひと)をば、かえりてあわれむべきなり。 さ(ほど)のものの、(もう)さんによりて、念佛(ねんぶつ)(うたが)いをなし、不信(ふしん)を、おこさんものは、()うに()らぬ(ほど)の、(こと)にてこそは、(そうら)わめ。 大方彌陀(おおかたみだ)(えん)あさく、往生(おうじょう)に、(とき)いたらぬものは、きけども(しん)ぜず、(おこな)うを()ては、(はら)をたて、いかりをふくみて、さまたげんとすることにて(そうろ)(なり)。 その(こころ)をえて、いかに(ひと)(もう)すとも御心(おんこころ)ばかりは(ゆる)がせ(たま)うべからず。 (あなが)ちに(しん)ざぜらんは、(ほとけ)なお、(ちから)および、たまうまじ。 (いか)(いわん)んや凡夫(ぼんぶ)(ちから)および(そうろ)うまじき(こと)なり。 かかる不信(ふしん)衆生(しゅじょう)を、利益(りやく)せんと(おも)わんに、つけても、とく極楽(ごくらく)へ、まいりて、さとりを、ひらきて、生死(しょうじ)に、かえりて、誹謗不信(ひぼうふしん)(もの)をも、わたして、一切衆生(いっさいしゅじょう)、あまねく利益(りやく)せんと、(おも)うべき(こと)にて(そうろ)(なり)
それですから、そのように偽りをたくらんでいう人をかえって哀れむペきものです。
その程度の者のいうことですので、念仏するのになんの懸念もありません。
疑いをおこす者は、いうに足りない程度のことでございます。
だいたいが阿弥陀仏に縁が浅く、往生を願うよい磯会にめぐり合わない者は、聞いても信じないで、人が行なっているのを見ては腹を立て、怒りを含んで、さまたげようとするのです。
そのことを心得て、どのように人がいおうとも、お心だけはいいかげんになさってはなりません。
ましてや凡夫というものは力の及ぶものではありません。
このような不信の人びとのために、慈悲をおこし、ためになるようにと思うにつけても、早く極楽へ参って、さとりを開いて、ふたたびこの迷いの世界に帰ってきて非難している不信の人を極楽に渡らせ、一切の生きとし生けるものをあまねく利益を持させようと思いなさることです。
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